スローシネマ ムーブメント

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 ぼくが、スラックとプラチャーを、彼らの社会変革運動の拠点であるウォンサニット・アシュラムに訪ねたのは2009年のことだった。
 スラックの堂々たる威厳、それと矛盾なく同居しているユーモアと人なつっこさ。プラチャーの優しさ、探求心に満ちた真摯なまなざし。一見対照的に見えながら、ふたりは共通の品格をその全身にたたえていた。
 スラックを「タイのガンディー」と呼ぶ人々がいる。そのマハトマ・ガンディーに倣って、彼がウォンサニット・アシュラムをバンコック近郊に創設したのは1985年のことだ。ここでは、村落の若いリーダーたちのための教育プログラムやセミナーが開かれる。タイはもちろん、アジア各地から集まった人々が、トレーニングを受けて、スピリチュアルな社会変革者へと自らをつくりあげていく。
 10年にわたってこのアシュラムに暮らしながら、「魂の教育」運動を率いたのがプラチャーだった。彼の名を国際的に知らしめた、社会活動と瞑想とを融合させたユニークな教育プログラムは、ここで生まれ、練り上げられた。
 最初の訪問の後、ぼくはスラックの数ある著書の中から、英語による一冊を選んでその翻訳に着手、結局、2011年の東日本大震災の数ヶ月後に『しあわせの開発学—エンゲージド・ブディズム入門』(ゆっくり堂)として出版した。その日本語版に寄せたメッセージの中でスラックは、震災を機として日本人のうちに、“精神の復興”とも言うべきものが起こることを祈ったのだった。それは、科学技術による自然支配という「傲慢な心」から、自然との一体性という「謙遜の精神」への、スピリチュアルな転回だった。
「すべてが関係し合っているつながりの中に自分がある、と感じられる心を養うのです。私たちは……他者に依存し、そのおかげで生きているのです。他者とは人間ばかりでなく、私たちの周りにある樹木や大地や水や空気です」
 その後もぼくは、度々タイへのツアーを組んで、スラックとプラチャーのもとを訪れた。ツアーは回を重ねるごとに、「スピリチュアリティ」を焦点とするようになっていった。ツアーの中で特に人気なのは、プラチャーによるウォサニットでの瞑想を軸とするセミナーだ。
 「スピリチュアル」という使いづらい言葉も、ここでならストンと腑に落ちるようだから、不思議だ。日本の若者たちも嬉しそうに瞑想にいそしみ、「社会参画する仏教」を学んでゆく。
 「スピリチュアル」は訳しにくい。「精神的」も「霊的」もしっくりこない。また日本には、この言葉が使いづらい特殊な事情もある。スピリチュアルというだけで、引かれたり、不気味がられたり。もったいない話だ。
 そもそも、スピリチュアルは、現代社会の物質主義—「物」だけがリアルで、だから信じるに値するという見方、考え方—にそぐわない。世界中の先進国、中でも現代日本社会は、この物質主義にみごとに染めあげられているだから。商品としての「物」の生産や消費を最優先する社会では、成長と言えば、それは消費と経済の成長のこと。宗教やスピリチュアリティは、道徳や倫理とともに地に堕ちている。いや、物の世界である経済や科学技術こそが信仰の対象となり、一種の“宗教”へと成り上がったのだ。
 そこにこそ、人類を生存の危機にまで追い込んだ根本的な原因があるとぼくには思える。だから、ぼくたちが手がけてきた「アジアの叡智」映像シリーズでも、こうした現代の“宗教”に対抗するための糧をアジアの精神文化の中に探し求めてきたのだった。そして、今こうして第5作目の本作で、その一つの豊かな地下水脈に巡り合ったというわけだ。
 本作の冒頭で、聞き手であるぼくはいきなり宗教について尋ねる。スラックは「宗教は助けにも、害にもなります」と答えた後で、こんなふうに説明する。スピリチュアルであるために、宗教が常に必要なわけではないが、良き導きともなりうる。それが本物の宗教というものだ、と。
 つまり、肝心なのは宗教ではなく、「スピリチュアルであること」なのだ。仏教徒はブッダを、キリスト教徒はイエスを頼りに、そして無宗教の人は「ただ、澄んだ平和な心で呼吸すればよい」とスラックは言う。
 また映画の後半に登場するプラチャーは、「スピリチュアルな人間として」政治や経済を理解しなければならないと説く。そうしなければ、環境問題の本質をつかむこともできない、と。彼によれば、自分だけの狭い世界から解き放ってくれるのが、瞑想などの精神修養だ。
 「自然が息をしている…」「自然が歩いている…」。そんなプラチャーの呟きが、ぼくたちを主客一体の境地へと導いてくれる。
「瞑想を通じて、自分にとっての正解が実は思い込みに過ぎないと分かる。自分にとって最良のものが他者にとっては正解ではないかもしれない。自分の視点に縛られなければ、世界はより明瞭に見える」
 わがDVDシリーズの第1作『今、ここにある未来』で、サティシュ・クマールはSで始まる三つの言葉をあげて、それらが社会において、また個々人の生き方において、バラバラではない一つの全体として実現されるべきだと語っている。その三つとは、人間と自然とのつながりを表すソイル(土)、自分自身の心や魂とのつながりを表すソウル(魂)、人間同士のつながりを表すソサエティ(社会)。
 サティシュによれば、よりよい世界の実現を目指すはずの運動がこれまでは三つに分裂しがちだった。でも、「新しい世界を目指す運動」がバラバラでは困る。だから、それらを結びつける必要がある、と彼は言う。社会運動や環境運動は、「ソウル」、つまり、スピリチュアリティと一体となってはじめて、私たちの運動は本物になるのだ、と。
 「魂消(たまげ)る」という言葉があるが、肝心なのは、魂が揺さぶられるほどに深く驚くこと。祈ること。安らぐこと。マインドフルに呼吸する、歩く、眠る、食べる。スピリチュアルとは、そうした日々の一見平凡な暮らしの中にこそ息づく態度だ。
 しかし、それにしても、これらの点でぼくたちはいかに未熟なのだろう。まずはそのことに呆れてみるのもいいだろう。そして、おもむろに修行にとりかかるのだ。ヨガも瞑想もハイキングもガーデニングも、みな修行。みなスピリチュアルな成長のためだと思えば、楽しい修行だ。ましてそれが社会のため、自然のためにもなるとすれば。
 少し時間がかかっても、できれば歩く。最短距離を求めず、少しぐらいなら遠回りで。便利という信仰から離れる。便利を支えてきた再生不能エネルギーに別れを告げるためにも。それもこれも、自らのうちに、生きとし生けるものへの、未来の世代への、慈愛を育てるため。
 「木々は大きな音をたてて倒れるが、音もたてずに静かに育つ」。これは映像の中でスラックが紹介するタイの格言だ。今もあちこちで、やかましく木が倒れる一方で、多くの木が静かに着実に育っている。大転換は不可避だ。だから、あせってはいけない、とスラック。
 そして彼はつけ加える。唯一の道は、憎しみの代わりに、慈愛を拠り所として生きること。あきらめてはいけない。その慈愛を育てることは、誰にでもできる偉大な仕事なのだから、と。
 ドイツの作家ミヒャエル・エンデの話にこんなのがある。
 遺跡発掘に向う探検家の一行に雇われ、荷物を背負って数日間ジャングルを進んでいた先住民たちが、突然、座りこんで前進することを拒否。そうして二日間、なだめても脅しても動かなかった先住民は、また突然、目的地へ向って歩き始めた。後に、あの二日間のことを訊かれた先住民のひとりはこう答えた。「早く歩きすぎた。だから、魂が追いついてくるまで待たなければならなかったのだ」
 慌ててはいけない。あせってはいけない。ゆっくりといこう。これがスピリチュアルという言葉とともに考えてきたことの、ひとつの結論となる。だって、また先を急ぐと、あの探検隊のように、魂をどこかに置き去りにしてしまうことになるから。
 しばし立ち止まろう。そして呼吸に戻る。しかるのち、またおもむろに歩き出せばよい。ただし、今度は、魂がついて来られるくらいの、自分らしいスローなペースで。

 本作の主人公であるスラックとプラチャーに謹んでお礼を申し上げる。また、我々のDVDシリーズを見守り、ここまで導いてくれたサティシュ・クマール、財政的な支援の手を差し伸べてくれたフル・サークル基金に感謝する。

2015年初夏